地平線と山が重なりあう日

oh!強烈!

昔「激烈バカ」というマンガがあったがすごいタイトルだ。

話は変わるが、昔、こんなことを書いたことがある。「素晴らしい表現、またはライブ」をはかるバロメーターとして、「どれだけ想像力が刺激されるかどうか」というものをあげたことがある。何か、書こうとする刺激。何かを書きたい、まとめたい、もしくは、書いてみたい、まとめてみたい。というものが、目標となり、突き動かす原動力となるもの。

そこで、その原動力というものについて、少し考えてみたい。

昔、僕は、とある事情で、つきそいで、日曜日の教会に何度か足を運ばせたことがある。2回か、3回くらいだったのだが、どうも、へきへきとしてしまった。あまりにも大きすぎる教え、そしてあまりにも親切すぎる人たち、自分の体がどうも拒否反応を持ってしまった。拒否反応というのは、言いすぎかもしれないが、自分には無理だと思ってしまった。当時、エロビデオを真剣に見ていた若い20歳だった。アウトサイダーに興味があり、なんとも自分が身分不相応だったのを今でも覚えている。私はここにいるべきじゃないと思ってしまった。
また逆に、そのころ大好きだった岡本太郎には、大きく刺激を受けた。ただ、うけすぎて、自分のバランスがとれなくなってしまったことを覚えている。岡本太郎はあまりにもでかすぎて、笑える対象に絶対にならなかったのだ。師と仰ぎ、仰いだものの、岡本太郎を地でいこうとすると、どうも無理が出てくる。挨拶をするにも、「どうして、人と人が会うたびに、頭を下げなければならないのだ。そういうところから、人間の尊厳が失われる」(これが正しい解釈かどうかは別として)そんなことを思いながら生活していたから、生活に支障が出るのは必至だ。ということで、大学四年生の22歳の頃は、一歩も家から外に出ず、人知れず、毒を吐き続けて、世間に文句を言っていた。

今から考えると青臭すぎるのであるが、それによって友達も大分失った。ゆらゆら帝国の「友達3人いればいい」を地で思っていたので、友達は全然いなかったし、人を信用しようとしなかった。それゆえか、自分の体力のなさと、意志の弱さに、げんなりしていた。自分との理想とのギャップがでかすぎたのだ。そこから考えると、あまり強すぎるものを体に入れると、身動きが取れなくなってしまうということである。自分の歩く道を失って、方向がわからなくなってしまうのだ。だからといって、岡本太郎には、お世話になったし、しっかり傾倒させていただいた。そんな私も、34歳のいい年になった。最近は、強すぎるものにあまり触れなくなったし、触れてもやけどしなくなった。若い頃は、かっこいいと思ったものには、どっぷりと浸かってしまう、もうひょろひょろのキムチのようだった。ただ香辛料は強すぎるが、なかの白菜は、なんでもなかったという、、、。味はキムチだが、中身は、なんだったんだろう。何もなかったのかもしれない。というわけで、最近は、あまりすごすぎるものに、興味がわかなくなってしまった。しょうもないものがしっくりくる。それが自分にとって、いいとかわるいとか、関係ないんだと思っている。ただただ自分が何かを捻出できるようなものに触れればいいんだと思っている。それが僕にとっての最高の表現である。いや、言い過ぎた。表現の一部である。

そこで最初に書いたことから振り返ってみたい。「素晴らしい表現、またはライブ」をはかるバロメーターとして、「どれだけ想像力が刺激されるかどうか」であるが、強すぎるものは、まったくもって影響をされまくってしまい、結局そのもののマネになってしまうのだ。マネはやっぱり自分から出てきた感じがしなくて、しっくりこない。やっぱり(自分にとって)つまらないものから学んで、排出、捻出する方がいいんだ。と今は思っている。大きすぎるものは影響力が大きすぎて、困ってしまう、、という話でした。ただ大きい小さいを決めるのは自分なので、どっぷり恋人のように浸かるか、とおくからそいつを見るかが、自分にとっての距離感でございます。

ということで久しぶりに書いてみました。
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私にとって大きすぎるもの
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by horaizunyt2 | 2013-02-02 11:15 | くろおか
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